干支のルーツ

「干支のルーツ」を3層の深さで研究したものです。
 2004年の干支は「申(猿)年」、2005年は「酉(鶏)年」です。私は申年ですので、
まず申(猿)の話をしたいと思います。神社で「猿」を「神使」としている神社があります。それは
琵琶湖のほとり比叡山の麓の滋賀県大津市にある「日吉大社」です。日吉大社は全国4千社の
日吉神社(または日枝神社)の総本宮で、西本宮の楼門の4隅には「猿」の像が彫られています。

 また日吉大社は京の都の北東に位置することから京の鬼門を守る神社として位置づけられています。
京都御所を囲む壁の北東に日吉大社の神使である「猿」の像が祀られています。 この像は左甚五郎作と
伝えられています。申年の人は是非日吉大社に参拝してください。

 東京赤坂にも「日枝神社」があり、ここには巨大な夫婦の猿像が祀られています。

 2005年は酉年、鶏と強い関係を持つ神社は無さそうですが、伊勢神宮では20年毎に行う
式年遷宮の際に祭典の開始を告げる儀式として「鶏鳴三声」という鶏の鳴き声を神主が3回
続けて発声し祭典が開始されるとの由鶏鳴は新しい朝や新しい時代を告げることを意味するもの
と思われる。

第1層 十二獣との出会い

 干支といえば鼠に始まり猪で終わる十二獣とは何時頃から伝えられているのだろうか?
わが国で最古の十二支像は「キトラ古墳」で発見されている。キトラ古墳は奈良県明日香村に
あり、700年代の初めに築造された古墳である。この古墳の石室の天井には天文図、4方向の
壁には玄武、青龍などの四神像とともに十二獣の獣頭人身像が描かれていたのである。
四神像と十二獣の獣頭人身像の配置と代表例として南を守る「朱雀」(鳳凰)と十二支の寅と
対応する虎の顔の獣頭人身像を示す。

 十二支と対応する十二獣は中国後漢の思想家「王充」(西暦27年生、100年頃没)が論文
「論衡」に記載している。論衡(全文30巻は国会図書館で確認可能)巻3の「物勢編」に
四神像や十二獣が登場する。ただ十二支と対応する十二獣は王充が決めたわけではなく、西暦
100年頃には当時の中国では当たり前のこととして認識されていたということである。
 中国湖北省で発見された秦の時代(BC217年)の墓から出土した「日書」という竹簡にも
十二獣が登場するという。しかも、秦の時代の十二獣は現代のものと異なっている。
現代の十二獣は漢の時代になって使われていたもの。十二支と十二獣との結びつきは2千年以上に
渡っていたことになる。
 更にインドで生まれた釈迦(BC463−BC383)の教法の一つで中国に伝わった「大方等大集経」
という教えがあり、ここでも十二獣がキトラ古墳に描かれた方位と対応して登場する。
(ただし虎は獅子になっている)

第2層 暦・天文学との出会い

 干支(かんし)は元々は十干(甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)と十二支(子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥)
の組み合わせで60年をサイクルとする「年」を意味し、人生50年も難しい時代の人の一生には
十分な長さの暦であった。
 2004年は正式には「甲申」(こうしん/きのえ・さる)の年で、神社の絵馬にはこの表示を
している神社もある。2005年は正式には「乙酉」(おつゆう/きのと・とり)の年になる。
甲や乙は十干であるが、現在では後者の十二支のみで「年」を示している。

 甲子園は1924年の「甲子」(こうし/きのえ・ね)の年に完成したので、その名前がついた。
また明治元年(1868年)に発生した戊辰戦争はその年の干支が「戊辰」であったため、この名で
呼ばれる。
「干支」を「エト」と読むのは十干を日本では兄(え)と弟(と)の2つのグループに分けたこと
から「干支」を「えと」と読むようになった。

 日本で干支を用いて年を示した最古の記録は奈良の法隆寺にあるという。
法隆寺の金堂に安置されている本尊釈迦三尊の舟方大光背の裏面に「辛巳」(621年)と「癸未」
(623年)の記録があり、釈迦三尊を造る理由が刻まれている。

 干支による年の表記は中国に始まる。BC104年に前漢の武帝が採用した「太初暦」が
干支紀年法である。BC104年を「丁丑」(ていちゅう/ひのと・うし)と定めた。日本が暦日を
用いたのは604年といわれ、この年は「甲子」になる。2005年の「乙酉」の元はBC104年から
2100年の時を経て引き継がれたものである。
 「太初暦」のルーツを更に辿ると木星の運行を基本とする「太歳紀年法」が登場する。太歳とは
木星が12年周期で天空を一周することから木星と反対方向に回る抽象化した星をいい、木星と同じ
速さで天空を12年で回ると考えた。そして太歳の1年毎の「位置を十二支に」割り当てた。
太歳紀年法の成立はBC270年と考えられている。更に木星そのものを基準とする暦法「木星
(または歳星)紀年法」は中国古代春秋時代の歴史書「春秋左伝」によればBC546年に既に
その記述があるという。十二支は、この時代には天空での方角を示すものであった。
 干支が方位を示す名残の一つに「子午線」がある。子午線は北極と南極を結ぶ大円であるが、
「子」は「北」を意味し、「午」は「南」を意味している。もう一度キトラ古墳の十二獣の
配置図をみると子(鼠)は北面の中央に、午(馬)は南面の中央に配置されていることが確認できる。

第3層 更なるルーツ「十二支の原義」

 十二支のルーツは更に遡る。古代中国の殷の時代、BC1600年の甲骨文字に十干と十二支が
刻まれている。殷の時代においては、既に十干と十二支の組み合わせで、60日周期で「日」を数えて
いたといわれる。
 殷の時代の十二支が持つ意味(原義)は幾つかの説がある。1年の中での草木の成長の様子を示した
ものというものと、人間の胎児の成長の過程を示したものという説もある。

 特に今回は東京大学東洋文化研究所が1993年に「甲骨文字字釋綜覧」として報告した内容から、
十二支の胎児の成長にからむ部分を「十二支の原義」として別紙にまとめて
みたので参照してください。3600年前の古代人が考えた生命誕生の息吹を感じることが出来る。

 殷の時代では十二支と十二獣は全く関係がなかったので、猿や鶏には夫々の動物の特徴を現す、
申や酉とは異なる甲骨文字が当てられている。

 また天空と十二獣の関わりについてもう一つ触れることが必要なのはバビロンの12星座である。
バビロンはシュメール文化の流れを汲む5000年前のメソポタミア地方の支配者であった
カルデイア人が作った国といわれている。太陽が通る道を12に分け星座を当てはめた。BC1800年に
雄羊、牡牛、双子、蟹、獅子、乙女、天秤、蠍、射手、山羊、水瓶、魚の12星座を当てはめたという。

 古代中国の十二獣と獅子、羊、牛でつながる。約4千年前の天空を古代中国でもバビロンでも、また
日本でも見ていたわけである。今回の「干支のルーツ」の研究に当たっては「中国まるごと百科事典」の
管理人様から貴重な情報を頂きました。


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