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昭和40年1月、前原市の平原地区で2000年前の王都の歴史が 甦る瞬間が訪れた。当時19才の井手信英氏が通称塚畑と呼ばれる 場所を、みかんの木を植えるために溝を掘っていたところ、 2000年の眠りについていた女王の遺跡が発見された。この遺跡の 調査は考古学者の故原田大六氏が調査責任者として行い、一つの 割竹形木棺墓から次のような驚くべき副葬品が発掘された。 鏡:わが国最大の鏡 八咫鏡 4面、後漢鏡 35面 剣:鉄製大刀(長さ81cm)1本 玉:瑠璃勾玉3個、丸玉 約500個、連玉 約300重、 瑠璃紺色小玉 492個他 この木棺墓に埋葬されたのは副葬品の内容から女性で、その時代は 西暦150年頃と推定されている。 上の写真は八咫鏡を示し、直径は46.5cm。一咫は中婦人の 手の長さで8寸(18.4cm)、八咫はその8倍で鏡の円周を示し、 147cmとなる。 八咫鏡は古事記に登場する。古事記には序文に「鏡・珠・剣」の 3種の神器が登場し、「天の岩屋戸」で八咫鏡が祭られ、「天孫降臨」 では御魂として奉ることを求めている。 伊勢神宮の御神体は八咫鏡と いわれ、御樋代(みひしろ)と呼ばれる容器に納められる。その内径は 資料によれば49cm、まさにこの遺跡で発見された八咫鏡とピッタリ の大きさになる。 また古事記では天照大御神が須佐之男命との戦いに500個の珠を 用いたと記載されている。この木棺墓には上述のように500個の 丸玉が副葬されている。更に古事記にはこの戦いに1500本の矢を 用いたと記載されている。天照大御神が放つ1500本の矢とは 太陽の光を象徴するものと考えられている。 井手将雪氏は発掘された八咫鏡の円周に1500本の文様がある ことを発見した。井手さんは古事記に記載された須佐之男命との戦いは 台風との戦いを意味するものであり、この戦いで死亡したと記載されて いる日巫女の墓そのものではないかと考えている。詳しくは近代文芸社 発行井手将雪著「倭女王 大ひるめのむちの墓」を参照してください。 しかしながら井手さんは、この墓の年代が西暦150年頃であること から、卑弥呼が死亡した247年とは100年の違いがあり、卑弥呼の 墓とはいえないという。残念!! |