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「邪馬壹國」の文字をみて、これは邪馬台國(ヤマタイ国)の間違い ではないかと思われる方が多いと思います。しかし西暦285年に 編纂された三國志の魏志巻三十の中にある東夷倭人の条(通称魏志 倭人伝)には上の写真のように「邪馬壹國」と記載されているのです。 現在我々が邪馬台國と称しているのは426年に編纂された後漢書に 「大倭王は邪馬臺國にいる」という記載があることに起因しています。 魏の時代は「臺」は中国の皇帝である「天子」または「天子の住む 宮殿」を意味するといわれています。卑弥呼の時代に「邪馬壹國」は 何と発音されていたのか、また後漢書が邪馬臺國と記載したのは間違い なのか、あるいは、なんらかの意味があったのか分かっていません。 最も関心がある「邪馬壹國」の場所も分かっていません。江戸時代に 邪馬台國論争が始まって300年、いまだにその場所は謎です。 今回は邪馬壹國が誕生(西暦183年、卑弥呼が即位した年)する までの「わが国の王都」がどこにあったのか、王権のシンボルである 「鏡・剣・玉」がセットで発掘された王都跡を訪ねてみます。 |