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西暦238年(景初2年)魏が楽浪郡と帯方郡を陥落させたのをみて 卑弥呼は6月帯方郡に使節を派遣し奴隷10人を中心とする貢物を 魏の明帝に献上した。12月明帝は卑弥呼を「親魏倭王」に任ずる 「金印」と紫綬を与え、銅鏡100枚その他の下賜品を装封して 録受する旨の詔書を発行した。 しかしながら明帝が翌年1月に崩御されたことに伴い、239年は 魏では喪のため1年間の公事を停止。 240年(正始元年)帯方郡大守を遣使し、明帝の詔書と印綬・ 下賜品を渡すことになった。この使節が倭国にきた旅程が倭人伝に 記載されている。この内容の解釈を巡って諸説が飛び交い、九州説と 近畿説を中心に江戸時代から300年に渡って解決されていない 古代史最大のミステリーになっている。 このHPでは「邪馬壹國」の場所を特定することは出来ないが 「素人の自由さ」を背景に一つの見解を述べたい。倭人伝では魏の 使節が帯方郡(現在のソウル)を出発して、韓国南部を経由し、 対馬、壱岐(一大国)を通って末慮国(現在の唐津近辺)に上陸、 陸路で伊都国(現在の前原近辺)に到達と記載されている。ここから 先の旅程については各種の解釈があり、300年の論争でいまだに 解決されていないことになる。 しかし「帯方郡から女王国までは1万2千里」とあること、 伊都国に到着するまでに既に1万1千里以上を要しており、残りは 数百里になっている。即ち末慮国から伊都国までの距離(500里) と同程度であることから、女王国は伊都国から近い博多湾に近い 場所に、その入り口があると考える。 倭人伝では多数の国名と距離が出てくるため極めてまぎわらしいが、 魏志を編纂した陳寿が参考にした文献に「魏略」がある。魏略には 登場する国名が4国で、「帯方郡から女王国までは1万2千里」と しか記載されていない。倭人伝で使用している「里」は測量の 専門家である谷本茂氏によれば短里で1里が約77mとされている。 従って伊都国から40km程度の所に「邪馬壹國」の入り口があると 考える。博多湾沿岸部である。なお上の絵は長崎県教育委員会発行の 発掘「倭人伝」を参考にしています。 |