金沢城趾

金沢城趾 本丸


仙北は現在の秋田県横手市金沢中野で、そこに戦国時代の金沢城が
あります。雪のかまくらで有名な横手の地です。
私が金沢城跡を訪問したのは2009年で周辺は金沢公園として
整備されています。
仙北の郡司であった家光が秋田・仙北の一揆により切腹、大曲
和泉守が当時3歳の家光の子「家信」(光信公の父)を抱えて
雫石を経由して久慈に逃げのびたという「金沢城趾」です。
「後三年の役」があってから350年後のことです。
「青森県史 資料編 中世2」で「津軽家の歴史は仙北金沢の地に
始まる」と記載されたのが、この場所です。

私は弘前市立図書館の資料を含め、光信に関わる資料を調査する
中で、東京の国立国会図書館にある「百家系図」という文書に
たどり着きました。その中に「南部」の系図があり、更に光信の
祖父の実名が記録されていることを確認しました。
「百家系図」は明治の学者鈴木真年(1831ー94)の編纂
によるもので1893(明治26)年の成立と考えられています。

「百家系図」南部の系図には政光ー家光ー家信ー光信と記録
されています。政光は南部氏の歴史の中では八戸氏及び七戸氏の
祖と言われる武将です。
「百家系図」には、家光は1402年生まれで、1411年に
金沢城代になったと記載されています。
この年は南部守行を総大将とする南部氏と秋田安東氏の戦いが
あり、南部軍は勝利、南部家の家紋を双鶴にすることになった
記念の戦いであったことが「参考諸家系図」にあります。
戦いに勝利した南部氏が家光を城代として派遣したものと考える
ことが出来ます。

「百家系図」には1435年、煤孫氏の乱で家光戦死と記載
されています。この乱は「南部史要」にも登場し、詳細は
「稗貫状」に記載されていますが、残念ながら金沢城のことや
家光戦死ということは記載されていません。
ただ冒頭に永享7年五月和賀と須々孫との確執があった際
「近郡可及動乱」とあります。この6文字の裏に家光戦死と
なった戦いがあったと考えられます。


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