津軽藩のルーツ

津軽藩の国のルーツ

弘前は江戸時代津軽家弘前藩(10万石略称津軽藩)の城下町でした。
現在の弘前は 春は「桜」、夏は「ねぷた」、秋は「りんご」、冬は
岩木山での「スキ−」と四季を強く感じることができる町です。
この弘前を生んだ津軽藩のルーツを探ります。

藩祖津軽為信は1550年に生まれ大浦城と堀越城を拠点として幾多の
合戦を征し、1590年豊臣秀吉公から津軽領を安堵され、その後
関ケ原の戦いも乗り越え津軽藩の基礎を築きました。
為信は1603年に新たな城の計画に着手します。しかし1607年
京都で病没したため、二代藩主信枚が1610年築城に着手し翌年に
完成します。
弘前では2012年、弘前城築城400年祭が盛大に行われました。
1611年築城当時の天守閣は5層でしたが、1627年の落雷に
より焼失、現在の3層の天守閣は1801年9代藩主津軽寧親の時代に
幕府に願い出て建てられたと言われています。3層と小ぶりになった
ものの春の桜の時期に下乗橋からみる天守閣は素晴らしいものです。
現在、日本には江戸時代またはそれ以前に建設され現代まで保存されて
いる天守は松本城(長野県)・犬山城(岐阜県)・彦根城(滋賀県)・
姫路城(兵庫県)・松江城(島根県)など、わずか12城で北日本では
弘前城ただ一つです。

弘前城は、かって高岡城(または鷹岡城)と呼ばれました。
弘前城築城の経緯については弘前市史・別冊「津軽弘前城史」に詳しい
説明があります。
築城にあたっては3カ所の候補があったといわれています。一つは
現在の場所で当時は「高岡」と呼ばれたとのこと、二つ目は現在の
長勝寺近辺、三つ目は茂森の山でしたが最終的に現在の場所が選ばれた
との由。
高岡という地名は、その名の通り高い丘がある場所で現在もその名残
があります。本丸の西側にあるハス池から本丸を望むと、そこは急峻な
丘になっています。これが高岡の名残と思います。
私は今まで弘前市全体の旧称が高岡と思っていましたが、築城時の
候補地選定の経緯からみると、現在の本丸付近の場所が高岡だった
ということになります。ちなみに高岡を弘前に改称したのは落雷の
翌年1628年です。

さて、築城にあたって、三箇所の候補の中から現在の場所を津軽為信に
進言した人物がいたと言います。
その人は為信の軍師といわれた「沼田面松齋」です。沼田面松齋の墓は
西堀から近い新町の光明山誓願寺にあります。
誓願寺はもともと為信が1596年、大光寺村に母親の菩提を弔う
ため京都の誓願寺から岌貞(ぎゅうてい)上人を招いて開山したのが
始まりと伝えられています。弘前城築城400年祭の一環として
沼田面松齋の石像が建立されました。弘前城の歴史に関わる場所の
一つとして足を運んでいただければと思います。
津軽為信の銅像は現在、弘前城の東門に近い弘前文化センターの
入り口に、お城の本丸を向いて立っています。
為信の銅像はかって城内にあったものの、第二次大戦の際に供出
されたということで、現在の銅像は2代目となります。
為信の出自には諸説あり謎に包まれています。津軽家の記録と南部家
の記録は全く異なります。
津軽家が江戸幕府に提出・承認された「寛永諸家系図伝」によれば
為信の祖父は近衛家猶子(藤原氏)政信で、父は政信の子守信と記録
されています。
一方「南部藩参考諸家系図」や「南部史要」によれば為信は久慈備前守
治義の次男で、祖先は南部氏より出るとあります。
このように津軽と南部の記録は全く異なり、この謎は現代でも解かれて
いないのです。
今回は津軽藩のルーツを探ります。
本題に入る前に「津軽」の意味です。「ツガル」と いう地名は奈良時代
の西暦720年に成立した我が国の正史 「日本書紀」に登場します。
今から約1300年前、為信が生まれる830年も前のことです。
「日本書紀」の第26巻「斉明天皇紀」に登場します。
斉明元年(655年)7月「津苅」の蝦夷6人に冠位を授けたという
内容です。斉明4年には「津軽」、5年3月も「津軽」7月には
「都加留」という表記で登場します。つまり日本書紀では「ツガル」
に対して3種の表記をしていますが、位置づけは斉明元年のように、
朝廷と蝦夷との関りを示す記事で登場します。
興味深いのは斉明5年7月の記事で、遣唐使による唐の皇帝への説明
があり、「蝦夷には3種あり、遠き者を都加留と名つけ、次の者を
麁(あら)蝦夷、近き者を熟(にぎ)蝦夷」に分類していることです。
「都加留」の原義を考える一つのヒントになります。
日本書紀では前述のように「津軽」に対して、3種の表記をして
います。その理由は日本書紀を編纂する際に参考とした入手ルート・
内容の異なる記事があって原記事の表記をそのまま書紀にのせた
ためと推測しています。日本書紀は3種の表記をしていますが、
ツガルと呼んだのか、ツカルと呼んだのか、また津軽に住んでいた
人の自称なのか、あるいは外部から名付けた他称なのかも不明です。
江戸時代1731年に成立した津軽家の官選史書「津軽一統志」
では「東日流は本字で、津軽は当字」としています。津軽一統志
編纂の元となった史書は「東日流記」ですので、「ツガル」は
「東日流」という考えがあったことを意味しています。
「津軽」の語源には幾つか説があります。弘前大学の福士先生が
1999年12月<地名「津軽」についてーその地域と語源―>
という論文を発表しており、その結論は自然的特徴から「津軽」は
「漬かる」からきたとしています。岩木川の流域が芦原の湿地地帯で
「漬かる」場所という意味で、津軽は岩木川流域としています。
「津軽」の語源は他にもあります。
当方が最も興味深く思っているのはアイヌ語の「チュプカグル」の
転訛説です。
大正15年に発行された「青森県誌」(西田源蔵編)に登場して
います。「チュプ」は「太陽」、「チュプカ」は「日出る地」、
「グル」は「人」すなわち「日出る地の人」という考えです。
「津軽一統志」の「東日流」もこの考えと関連が深いと思います。
岩木川河口の十三湊を中心に活躍した安東氏が「日之本将軍」と
号したのも、この考えに近いと思います。
ただ、アイヌ語の「チュプカグル」の転訛説はアイヌ語の研究家の
皆様からはcupkakurとtsugaruがあまりにも音縮約が大きすぎるため
評判は芳しくありません・・・。
為信は津軽氏を名乗りました。為信はどんな思いで「津軽」を
名乗ったのでしょう。それでは本題に入ります。


次へ

津軽藩のルーツへ戻る

ルーツの広場へ戻る

トップへ戻る