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為信の出自は謎に包まれているのです。先述のように津軽の 記録と南部の記録は全く異なります。 津軽家は第3代信義の時代に江戸幕府に対して為信の祖父政信を 近衛家の子として始まる系図を提出、更に第4代信政の時代に 祖先は奥州藤原氏の血を引く藤原秀栄に始まるという系図を残して います。 津軽家は第5代信寿の時代に官撰史書「津軽一統志」を編纂し 巻第一で「光信公」の事績から始め光信ー盛信ー政信ー為則ー為信 の事績を伝えています。 津軽藩は光信を直系の祖としています。この光信は久慈から種里 に入部したと伝えられています。 久慈というのは今の岩手県久慈市です。久慈は南部氏が拠点と していた場所の一つです。 豊臣秀吉が1589年に為信に宛てた朱印状には「南部右京亮」 となっており、翌年 に「津軽左京亮」となっています。 豊臣秀吉は当初、為信は南部氏の流れをくむ武将と位置づけて いたと思われます。 津軽の記録と南部の記録のどちらが正しいかは分かりません。 「津軽一統志」によれば、為信は武田甚三郎守信の子として 生まれ18歳で守信の兄為則の養子となり大浦城を継ぎます。 左の写真は岩木川に近い場所にある大浦城趾で、現在跡地は 中学校になっています。 右の写真は夏のねぷたにも登場する「大浦為信」です。 |