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津軽一統志の巻第一は「光信公」の事績から始まります。 光信ー盛信ー政信ー為則ー為信の事績を伝えています。 光信は1491年32才の時、現在の岩手県久慈から36騎の武士 とともに青森県の西部日本海側に位置する鰺ヶ沢地区の赤石川中流 に「種里城」を築いたとされています。 左の写真には「津軽藩発祥の地」とあります。 右は光信の像とその館です。 私は種里城趾を2回訪問しています。場所は現在の青森県西津軽郡 鯵ケ沢町種里町です。種里城は標高50メートル程度の台地に築造 された山城です。 「城」と言えば、私たちは弘前城のように白壁の天守閣を想像 しますが戦国時代は天然の要塞とも言える山や沢の地形をうまく 活用して築造され、本丸には「館」が建てられたものと思われます。 種里城は赤石川を防衛ラインとして築かれたもので、種里城趾には 現在「光信の館」が復元されています。 光信はこの種里城を拠点に、次に赤石川下流の日照田地区に 赤石城を造り、やがて津軽平野を押さえる拠点として岩木川の 中流域に大浦城を、長子盛信のために築城したと言われています。 江戸幕府が編さんした「寛政重修諸家譜」には、為信は赤石城に 生まれると記載されています。 私は以前、種里城趾を訪問した際に赤石城趾を探索しましたが、 たどり着けませんでした。藩祖為信の生誕地として案内板などを 整備すれば観光面でも貢献するのではないかと思いますが。 光信は1526年この地で亡くなり、その遺体は遺言により甲冑を つけたまま館の裏の廟所に葬られているとのこと。 弘前城の西南の方角にあたる西茂森には、曹洞宗の寺院が33寺 配置され正面に津軽家菩提寺の長勝寺があります。 「長勝」とは津軽家の先祖とする光信の戒名で、元々は1528年 光信の子盛信が種里に創建し、1610年二代藩主信枚が現在の 場所に移したと言われています。 |