久慈城趾

久慈城趾 久慈城趾


 久慈城の最後の城主は久慈直治で、天正19年(1591)九戸
合戦に参戦し敗れ、翌年には城は取り壊されたといいます。
『南部藩参考諸家系図』に久慈氏の系図があります。
為信は久慈備前守治義の次男として登場します。久慈城の最後の城主
直治の父は信義で、信義の弟が為信とするものです。
『南部藩参考諸家系図』には久慈氏の別な系図があります。久慈城
最後の城主久慈直治の父は治武で、治武の弟に為治があり、為治の
子が為信というものです。為信の出自という面では前述の系図と
大きく異なります。
更に南部氏の歴史古文書の一つとして1700年代初めに編纂された
「奥南落穂集」の「津軽右京大夫為信之事」では、為信は、久慈備前
治義三男久慈信濃為治子紀伊信長の男で、始めは久慈弥四郎為信として
登場します。
久慈氏の系図が複数伝えられる最大の原因は天正19年(1591)の
九戸合戦です。この合戦は元々は九戸政実と三戸南部信直との南部家
宗主争いに起因し南部信直が豊臣秀吉に支援を要請、奥州では九戸
以外にも大規模な一揆が起きていたため、これらの総鎮圧を目的と
して、秀吉は同年6月20日に号令をかけて奥州再仕置軍を編成。
徳川家康や前田利家も参戦、九戸政実は降伏し処刑されます。
久慈直治は九戸政実の弟を養子に迎えており、九戸政実とともに
運命を共にします。久慈氏は断絶です。
私が以前久慈城趾を訪問した際に、久慈城の麓の畠で古文書が焼却
されたとの伝承も伺いました。久慈直治の菩提寺は現在も久慈にある
慈光寺ですが、お寺自身も火事で書類は焼失して記録類は残念ながら
残っていないとのことです。


さて久慈氏は南部氏の支族ですが、「南部史要」によれば南部氏の
出身地は甲州南部の郷で、現在の山梨県南部町になります。


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