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1593年津軽為信公は京都の盆会で2間(1間は6尺1.8m なので3.6m)四方の大灯籠を出させ「津軽の大灯籠」としてPR したという伝承があります。 歴史的事実の観点では津軽弘前藩の記録で1722年に第五代津軽 信寿公が紺屋町の織座で「祢むた流し」を観覧したという記録が 残っています。 この記録は「御国日記」の享保7年(1722)7月6日のことで、 12の町が「祢むた流し」に参加したことが分かります。 この「祢むた」は「ねぷた」のことと解釈されています。「祢」は 「ね」の当て字、「む」は本来は「ぷ」という発音のところ、 当時は半濁音の仮名がまだ弘前には伝わっておらず「む」と表記した と考えられているとのこと。 日本語の半濁音の表記は平安時代はまだ無く、安土桃山時代の 慶長3年(1598)に長崎でキリスト教宣教師によって発行 された「落葉集」(らくようしゅう)が最初とのことです。 国立公文書館所蔵の「奥民図彙」(天明8年(1788))に 「子ムタ祭り之図」が残されており、七夕祭りの一環として 行われていたことが分かります。 1722年頃に津軽弘前藩の城下町「弘前ねぷた」の原型が完成 していたと思われます。これが「ねぷた/ねぶた」のルーツです。 弘前ねぷたは扇型を基本としており末広がりを意味するとのこと。 1980年民族学的価値から「弘前ねぷた」と「青森ねぶた」は ともに文部大臣指定の重要無形民族文化財に指定されました。 「弘前ねぷた」は東北のねぷた祭りのトップをきって8/1−7の 間運行されます。 |