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左の写真は舟塚山古墳の後円部から前方部を眺めたもので、その巨大さにあらためて驚愕する。 常陸の国に国司が派遣される250年前に、これだけのものを築造する権力の大きさは想像を絶する ものである。舟塚山古墳は単独で存在しているのではない。全体で25基の古墳が発見されており、 この古墳は16号古墳である。 この古墳の被葬者は誰か。この古墳の頂上には右の写真のように「都久志兎根命」との碑がある。 地元では当時のこの地の豪族で、国造本紀に茨城国造として記録されている「筑紫刀禰」の古墳としている。 「筑紫刀禰」とは如何なる権力者だったのだろうか? 「筑紫」は狭義では現在の福岡県を示し、広義では九州全体を示す。大陸の文化や技術を最も早く受け、 古代から多くの豪族が出ている。常陸風土記にも九州とのつながりを示す内容がみられる。筑紫刀禰は 九州出身の豪族なのだろうか? 一方濱田さんのお話では茨城の名峰「筑波山」は藍や緑、紫に変化する山容から「紫峰」と呼ばれることから その「筑紫」を取ったのではとも考えておられる。 謎は解明されていないが、この舟塚山古墳の被葬者の末裔が「茨城のルーツ」に深く関わったものと考える。 濱田さん、雨の中「茨城のルーツ」をご案内頂きまして、ありがとうございました。 さて常陸の国では常陸一之宮「鹿島神宮」を参拝することなしには戻れません。昔の国司も常陸の国に 着任した場合は、まず鹿島神宮を参拝することになっていました。次のページは「鹿島神宮」です。 |