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太宰府政庁跡には「都督府跡」の石碑が建っています。 「都督」というのは「すべてをひきいる」という意味を持つ古代中国の 官職名です。例えば百済の聖王は524年梁の高祖から「持節都督 百済諸軍事綏東将軍百済王」の冊封を受けています。 倭国で最初に中国皇帝より都督の冊封を受けたのは有名な「倭の五王」 の2番目の王「済」で451年に宋の皇帝から受けています。 太宰府に最も関係が深いと思えるのは5番目の倭王「武」です。 478年宋の順帝に国書を提出し、「開府」の宣言をし、都督六国 安東大将軍倭王の冊封を受けていることが宋書に記録されています。 この時に太宰府に「都督府」がスタートしたのではないかと考えます。 日本書紀には倭の五王の名前は登場しませんが、「筑紫都督府」は 天智天皇6年に登場し、筑紫に「都督府」があったことが分かります。 都督府跡の最も奥側に古くは「大裏」と呼ばれた場所があったことを 示す碑が建てられています。 大日本地名辞書によれば都督府跡には「内裏跡」や「紫宸殿」と呼ぶ 場所があったとされています。 紫宸殿は天皇の政務所を示し、内裏は宮城における天皇の私的区域を 示すものです。この地に倭国王がいたことを示すものと考えます。 |