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太宰府に都督を「開府」したのは倭の五王の3番目の「武」と考え ます。倭の五王の名前は日本書紀には登場しませんが、中国の 歴史書である宋書や梁書に登場します。 また常陸風土記に登場する「倭武天皇」とは、この王の業績を 示すものと思われます。 もう一人、中国の歴史書である「隋書」に登場する有名な倭国王 がいます。 それは600年に隋に遣使し、607年には有名な「日出る処の 天子」の国書を送ったと記録されている「姓は阿毎、字は多利思 北孤」という倭国王です。 この王は589年に即位したと考えられる倭国の歴史の中で最も 輝いた王ですが、この王も太宰府を都として倭国を統治したので はないかと考えます。 九州年号に「定居」(611)年と「倭京」(618年)が 登場します。倭国王「武」が開府した太宰府を「定居」の年に 本格的な都として整備を始め、「倭京」の年に、ほぼ都の姿が 完成したのではと考えます。 現在も「朱雀大路」があります。太宰府政庁からまっすぐに 伸びた道です。この道を筑紫の館から出発した中国の使者も 通った筈です。 太宰府の道には条坊制が導入されていました。現在でも西鉄 太宰府線に「五条」駅があります。 |