我が国の「九州」(その2)

我が国の「九州」(その2)


 この図は我が国の「九州」(その2)です。
「筑前」・「筑後」は「筑州」、「豊前」「豊後」は「豊州」、
「日向」は「日州」、「肥後」「肥後」は元々の意味の「火州」、
「大隅」は「隅州」、「薩摩」は「薩州」です。
これに邪馬壱国の時代からの二つの国「対馬」の「対州」と
「壱岐」の「壱州」が加わり、これで「八州」になります。
もう1州はどこでしょう?
肥前国風土記を読むと「肥国」とは「火の国」が本来の意味で
あり、その火は阿蘇の火です。
肥前の国(現在の佐賀県と長崎県)と肥後の国(現在の熊本県)は
元々は一体という説明になっていますが、両国の間に筑後の国を
挟んでいること、古事記には松浦は筑紫国となっていること、
古墳文化や文献史料から、佐賀市史(第1卷)では肥前国の東側は
筑紫国で、西側が火国(肥国)の一部と判断しています。
その意味で筑州の領域を見直ししています。

さて、九州の九番目の州の話です。
日本書紀では朝廷に従わない熊襲との戦いが重要テーマになって
います。熊襲の拠点は日本書紀では襲国として登場します。
襲国とは何処でしょう。
江戸時代文政六(1823)年に発行された『本朝国郡建置沿革
図説』では景行天皇東西征定図という図の中で、襲国は薩摩の北、
日向の西としています。
昭和13年熊本県球磨郡あさぎり町の才園(さいぞん)古墳で
貴重な鏡が発見されました。刀剣・玉と一緒に発見された鏡は
金メッキされたリュウ金獣帯鏡と呼ばれる中国の江南地方
(三国志時代の呉の領域)でつくられたもので、日本では
全部で3枚しか発見されていない貴重なものといいます。
才園古墳の場所は人吉市の北部で、襲国の中心といえます。
ちなみに後の2枚の内一枚は福岡県糸島市、もう一枚は岐阜県
大野町とのこと。
話が長くなりましたが、九州の残りの一州を襲州とした図を
示します。これで「九州」です。
古代の倭国の中心は九州にあり、倭国を統一した王が我が国に
「九州」制を導入したと考えています。


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