「君が代のルーツ」

「君が代のルーツ」を3層の深さで研究したものです。

第1層 薩摩藩砲兵隊長 大山巌が推薦した祝歌

 国歌「君が代」は明治3年(1870年)9月8日東京越中島で行われた軍事大訓練の際に
明治天皇の御前で発表されたといわれている。国歌が初めて吹奏された場所は現在の
江東区越中島の調練場で今も残っている練兵橋を渡ったところで吹奏されたといわれる。
(江東区発行 江東辞典)調練場の跡地は現在は民間の事業者の工場があり、わずかに
越中島公園として隅田川沿いの散策の場所となっている。また近くには明治天皇聖蹟の
記念碑があり、明治3年9月の天覧が記録されている。この記念碑はラッパと太鼓を示して
いる。その由来を次に示す。

 国歌は国の威信を高めるために必要との判断から、西郷隆盛の従兄弟で当時薩摩藩
砲兵隊長で後に初代陸軍大臣になった大山巌が薩摩の祝いの席で歌われる琵琶歌
「蓬莱山」の一節にある現在の君が代の歌詞を推奨し、当時英国公使館護衛のために
横浜に駐屯していた英国陸軍歩兵隊第10番大隊付軍楽長で薩摩藩軍楽隊に軍楽の指導を
していたジョン・ウイリアム・フェントンが作曲したと言われている。

 フェントンが薩摩藩軍楽隊30名に軍楽を指導した場所は現在の横浜中区にある本牧山
妙香寺である。妙香寺は814年弘法大師創立で、薩摩藩が当時軍楽隊の寄宿舎として
利用したもの。この場所には「国歌君ヶ代発祥之地」の石碑がある。
薩摩藩の軍楽隊がフェントンの指導を受けて越中島の調練場でラッパと太鼓による我が国
初の国歌の吹奏をしたのである。これが記念碑に現れている。
琵琶歌は島津忠良公が普及に力を入れたもので「蓬莱山」が歌われたのも1500年代と
思われる。「目出度やな、君が恵みは久方の」で始まる「蓬莱山」の歌詞の全文は国立
国会図書館で確認できる。なおフェントンの作曲は歌詞との対応がとれず不評で、後に
現在の曲に変更されている。

第2層 古今和歌集

西暦905年に紀貫之によって撰進された「古今和歌集」の巻7、賀歌の部のはじめに
「わがきみは 千代にやちよに さされ石の巌となりて 苔のむすまで」の一首がある。
琵琶歌「蓬莱山」の時代より600年前のことである。
この歌は「読人知らず」になっているが、既にこの時代には有名な歌として認識されていた
わけで、更にそのルーツがある筈。


第3層 志賀海神社の山ほめ祭り

西暦57年に後漢の光武帝が「委奴国王」に授与した金印が発見された福岡県博多湾に
ある志賀島。この地に西暦300年頃に創建されたといわれる志賀海神社がある。

この神社に伝承されている「山ほめ祭り」に「君が代」の歌詞が登場する。
志賀海神社の「山ほめ祭り」で述べられる口上が最も深い「君が代のルーツ」と思われる。
まず志賀海神社を紹介する。


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