茨城のルーツ

フンダテ 鹿の子遺跡


   各国の国司は藤原宇合のように中央から任命され派遣されてくるのは朝廷の体制が固まってからの話で、
当初はその地方の支配者である国造が国司に横滑りしたものと考えられている。
石岡小学校の位置に移る前の古国衙は現在でも「茨城」(現地ではバラキと呼ばれている)の地名が残る
地域(先の地図のB地点)にあったといわれている。この地域には「フンダテ」と「カンドリ」と名付けられた
場所がある。上の写真の左側がその場所である。「フンダテ」とは「古館」の意味であるという。
この場所は霞ヶ浦に注ぐ恋瀬川を見下ろす高台で、中世には石岡城も築かれた要所である。ここが茨城郡の
中心地であり、茨城の里の中心地であると考えられている。まさに「茨城のルーツ」である。

この地に築かれた古国衙は茅葺きの建物と考えられている。右の写真は石岡市内で発掘された790年頃の
常陸国衙の官営工房の跡地とみられる鹿の子遺跡の復元建家の一部である。屋根は茅葺き、壁も茅壁である。
「フンダテ」の地に築かれた古国衙もこのような建物だったのでは想像する。
もう一つは「カンドリ」である。カンドリの地はフンダテと隣接した恋瀬川に近い場所であるが、その意味は
なんと「香取」で、ここにはかって香取神社があったという。ご承知のとおり香取神社の本家は香取にある
香取神宮で祭神はフツヌシ大神である。ここにもタケミカヅチ大神の姿はない。不思議!
 茨城大学五浦美術文化研究所の方々が「常陸府中」について詳しく研究され、地形図も発行されています。
関心がある方は、そちらにコンタクトされることをお勧めします。


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