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左は同じく外堀に浮かぶ桜、右は夜のしだれ桜と天守です。 昼の桜も美しいのですが夜桜も素晴らしいものです。 それでは「弘前」の由来の続きです。 前回は江戸時代の史書「津軽編覧日記」や「(北畠)永禄 日記」が伝える「弘前」の由来で「十三之崎」の別称「尾閭 (ビロ)ケ崎」から転じて「弘前」という説を紹介しました。 今回は徳川家康の信頼が厚かった天海大僧正の指導を受けて いた津軽家第2代信牧が「九字の呪文」から「前」を採用 したという説です。この説はインターネット検索をすると 多々紹介されていますが、この説の根拠は江戸時代の津軽家 の史書には見当たらず昭和56年発行の郷土誌「陸奥史談会」 の中で戸沢武氏(元弘前市文化財審議委員長)が「弘前の 地名由来考」として展開されています。 信牧が城地名を「高岡」から「弘前」へ改称したのは寛永 5年(1628)8月ですが、その理由について津軽家の 江戸時代の史書には記述がありません。「九字の呪文」と 「前」については後述しますが、戸沢氏は論文の中で、 城地名改称の大きな要因として、前年寛永4年(1627) の落雷による天守閣焼失を挙げています。 天守閣への落雷で火災が発生、火薬に引火して大爆発、 多数の武器・宝物・古記録等一切が焼滅したのです。 落雷は雷神の怒りによるもので、「天罰」と考えられて いた時代とのことです。 論文では信牧が受けた「天罰の心当たり」を言及しています。 信牧が受けたと感じた天罰の最大の心当たりは、為信からの 津軽家第2代の相続問題です。為信が逝去した慶長12年 (1607)信牧は為信の長男信建及び次男信堅が既に逝去 していたため家督を相続していますが翌慶長13年5月為信 長男信建の子「大熊」(8歳)が信牧の相続を不服として 幕府に訴えたのです。大熊を推薦したのは為信の長女(富) の婿の津軽左馬助建広でした。 津軽大熊事件と呼ばれるこの事件は、慶長14年正月に 幕府から裁定が下り津軽左馬助建広の津軽追放と信枚の津軽 仕置権承認で決着をみたのですが、津軽家中は叔父甥間お家 騒動の中で真二つに割れ、信牧に大きな負担として残った のです。 信牧の受けた天罰の心当たりの二つ目は自らの正室と嫡男 問題です。信牧は慶長15年(1610)高岡城の築城を 開始した年に、為信の時代に特にお世話になった石田三成 の三女曽野(辰姫)を正室としています。しかしながら、 慶長17年家康の養女満天姫を正室に迎え入れています。 満天姫は新築なった高岡城(五層の天守復元図/2011 年発行『弘前城築城四百年』)に入ります。 この縁談は天海大僧正の力添えによるものといわれ、 津軽家は徳川家とつながったことになります。このことは 津軽家にとっては良いことでしたが、信牧の元々の正室の 辰姫(石田三成の三女曽野)は側室になって上野国新田郡 大館(現在の群馬県太田市)に住むことになります。 そして辰姫との間に元和5年(1619)信吉が誕生し 信牧の嫡男となります。(後の津軽3代信義)信牧嫡男 信義は公式には家康の孫なるも実際は三成の孫となるわけ で、これも信牧の心労として天罰の心当たりの二つ目に なったとのことです。 そして寛永4年(1627)の落雷による天守閣焼失です。 信牧が師と仰ぐ天台宗の天海大僧正に頼った心境が理解 できます。殿様も大変です。 弘前改称の由来はまた次のページに続きます。 |