弘前

岩木山 最勝院


 左は弘前市役所前から望む岩木山です。標高1625m。まだまだ
雪が残っています。富士山と同様、岩木山も見る場所によって姿が
変わります。私は弘前からみる岩木山が好きです。

右は銅屋町にある最勝院の五重塔です。津軽統一の際に戦死した全て
の人を敵・味方の別なく供養するために、3代藩主信義と4代藩主
信政によって建造されたものです。31mの高さです。
しだれ桜が美しいではありませんか。

「弘前」の由来の続きです。
徳川家康からの信頼が厚かった天海大僧正の指導を受けていた津軽家
第2代信牧が「九字の呪文」から「前」を採用したという説の最終回
です。
信牧が城地名を「高岡」から「弘前」へ改称したのは寛永5年
(1628)8月ですが、前年寛永4年(1627)の落雷による
天守閣焼失が直接の契機とされています。
落雷は雷神の怒りによるもので「天罰」と受けとめた信牧は寛永5年
4月江戸に向かいます。津軽家の史書では信牧の江戸での行動に
ついて記述がありませんが戸沢氏の論文では、天海大僧正に会って
「九字の呪文」から「弘前」への改称の指導を受けたのではと推測
しています。
天海大僧正は天台宗の大僧正で徳川家康の側近として家康・秀忠・
家光の徳川3代にわたって江戸幕府の政策や宗教改革に深く関与した
といわれています。家康が幕府を開くにあたり、関東の地相から江戸
の地を選定・推奨したこと、家康・秀忠・家光の3将軍も天台宗に
帰依したこと、寛永元年(1624)には上野の山全体を天台宗の
寛永寺として創建しています。津軽信牧も寛永元年に天台宗に帰依
しています。
「九字の呪文」に関わる江戸時代の書物があります。この書物に
ある「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前」を九字(くじ)と
いい、元々は古代中国で生まれた道教の教えで呪力を持つ9つの
漢字とされ、日本に伝来し、邪気を払い除災・戦勝等を祈る作法と
して使われたとのことです。九字の最後の文字「前」は9画でも
あることから「前」一字で呪文を代表するようです。
「弘」は広いという意味があることから、津軽全領を広く守ると
いう意味を込めて「弘前」と名付けたとのことになります。
九字の「前」は音読みで「ぜん」なので、「前」を「さき」と
呼んだことになりますが、戸沢氏は水戸の光圀公を「さきの
副将軍」という場合の漢字は「前副将軍」と書き、同様に
「さきの中納言」も漢字で書く場合には「前中納言」と書くこと
を例にあげています。戸沢氏の論文にはありませんが「前」を
「さき」と読むのは日本では古代からあります。奈良時代に成立
した「播磨国風土記」に「射目前」という地名が登場しますが、
これを「いめさき」と読み現在の兵庫県姫路市「夢前町」
(ゆめさきちょう)に転化したといわれています。余談ですが、
この姫路市夢前町に「玉田」という地域があり当方も訪問しま
したが、ここが玉田姓のルーツと考えています。
結論としては「弘前」の意味は「魔を寄せ付けず、無限に広がる」
という願いが込められた名前ということになります。素晴らしい
名前と思います。
津軽の史書「封内事実秘苑」によれば弘前への改称の前年
(寛永4年)は2月に強い地震があり、春は水不足そして稲の
虫害と天災が続いたため7月に天海大僧正による祈祷を実施、
そして9月の天守閣の落雷焼失です。信牧の気持ちが分かります。
天海大僧正と九字の呪文からの「弘前」改称説は津軽の史書に
登場しないのですが、私はこちらの方が歴史的事実に近かった
のではと考えています。
これで「弘前」の由来の報告を終わります。


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