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左は西堀に浮かぶ桜、右は外堀です。満開の桜も美しいのですが、 このように散った桜が堀に浮かぶ姿も素晴らしいものです。本格的な カメラを構えた人が多数いました。 「弘前」の由来の続きです。 第2代津軽信牧が寛永5年(1628)城地名を「高岡」から「弘前」 に改称しました。江戸時代の津軽の史書には「弘前」に変更した理由 の説明はありません。ただ、前年の寛永4年に大事件が発生したのを 契機に改称したといわれています。 その大事件とは寛永4年(1627)9月に発生した落雷による天守閣 の焼失です。津軽の史書によれば雷は天守閣の鯱に落ち、天守閣内に 保管していた鉄砲用の玉薬に引火・大爆発を起こし、鉄砲1500挺等 武器を含め天守閣が焼失、また天守閣の西側の建屋にあった古記や珍宝 も焼失したとのことです。為信以前の記録が殆ど焼失したものと思われ ます。津軽家としては大事件で、信牧も大きな衝撃を受けたことと思い ます。信牧はこの大事件の翌年寛永5年(1628)城地名を「高岡」 から「弘前」に改称したのです。 「弘前」の由来は諸説ありますが、ここでは二つの説を紹介します。 一つ目は江戸時代の史書「津軽編覧日記」や「(北畠)永禄日記」が 伝える「弘前」の由来です。岩木川の河口「十三之崎」が登場します。 「十三之崎」と松前の間に大潮があり、これを「尾閭」(ビロ)と いう。昔から「十三之崎」を「尾閭ケ崎」といった。目出たい名 なので、この名から後に「弘前」というようになった。 つまり「十三之崎」の別称「尾閭(ビロ)ケ崎」から転じて「弘前」 となったという説です。 江戸時代の史書にはこれ以上の説明はありません。 「尾閭」(ビロ)を国語辞典で調べると「大海の底にあって、絶えず 水をもらすという穴。すべての川の出口に当たると信じられている 所。」とあります。 大正15年に発行された「青森縣誌」に「十三湖」について説明があり 十三湖は岩木川や山田川等津軽平野の大河の落ち口で、河川13が 集まっており地名の由来となっているということですので、国語辞典の 後者の意味につながっていると考えます。(十三之崎と松前の間にある 大潮を尾閭という説明とは少し違うようにも見えますが・・) 「弘前」からは結構遠い「十三之崎」からの転化説を津軽の史書が 伝える理由や背景については述べられていませんが、個人的には 津軽家が遠祖として位置づけた「奥州藤原氏」に関連していると推測 します。 津軽家の史書「前代歴譜」では津軽家は元々平泉の藤原基衡の第二子 秀衡の弟「藤原秀栄(ヒデヒサ)」から始まるとし秀栄は康和年間 (1100年頃)に十三港城を築いたとしています。この説からは 十三港は津軽家の遠祖の地となります。津軽家にとっては大変重要な 地であり遠祖が最初に築いた城地の名前をとったことになると推測 します。 二つ目は、天海大僧正の指導を受けた信牧が九字護身法から「前」を 採用したという説です。この説明は次のページに続きます。 |