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2014年5月2日弘前城を訪問。 弘前は江戸時代は津軽藩(弘前藩)10万石でした。陸奥の小京都と 呼ばれるところで弘前は「ひろさき」と読みます。弘前城は津軽統一 を成し遂げた津軽為信が計画し、二代藩主信枚によって1611年に 完成しています。 左は弘前城への入り口となる追手門です。弘前城にはソメイヨシノや しだれ桜を中心に2600本の桜があります。東内門には日本最古 (1882年)のソメイヨシノがあります。 2014年のソメイヨシノは4月27日に満開となり、5月2日は 桜吹雪のあとの美しさを堪能できました。 追手門の手前の堀の中に白く浮かんでいるのは桜の花びらです。 右の写真は弘前城天守です。1611年の築城時には現在の場所よりも 岩木山側のところに5層の天守がありましたが、1627年落雷により 焼失、現在の天守は1811年に隅櫓の改築として完成したものです。 江戸時代の天守としては全国に12箇所残るのみで、東北地方と しては、ここ弘前のみです。 この城の石垣が1983年の日本海中部地震などの影響で修理が必要 となり、今年の桜祭りが終了後、天守閣を移動し、石垣を解体修理、 工事が完了するのは10年後とのこと。ちなみに100年前にも同様な 修理をしたそうです。 それでは「弘前」という地名の由来について説明します。 津軽の統一を踏まえ、為信が居城としていた堀越城から新城を計画 し、第2代信牧が慶長16年(1611)に築城した城地名「高岡」 を現在の「弘前」に改称したのは寛永5年(1628)です。 その証拠は江戸時代に編纂された「信牧君一代之自記」という文書の 中にあります。「寛永五年」の欄に8月20日より「弘前と号す」 と記述されています。この文書には城地名を「高岡」から「弘前」に 変更した理由の説明はないのですが、前年の寛永4年に大事件が発生 (後述)したのを契機に改称したといわれています。 本題の「弘前」の由来に入る前に、為信が新城地として選定した 「高岡」について、その歴史を確認しておきたいと思います。 津軽家の官選史書「津軽一統志」では為信の4代前「光信」が 久慈から津軽に入部し、鯵ヶ沢の「種里城」を起点とし、その後 津軽の内陸部で岩木川に近い「大浦城」(現在は弘前市立津軽 中学校の敷地)に進出します。さらにその後、為信の実父 「守信」は南部の支族である武田重信が拠点としていた「堀越城」 に入ります。堀越城への進出は大浦城より岩木川を超えて更に 津軽の内部に入ったことになります。 為信は天正18年(1590)沼津で秀吉に拝謁し津軽領安堵を 得て文禄3年(1594)本拠を大浦城から堀越城に移します。 さらに慶長8年(1603)徳川家康が江戸幕府を開いた年に 為信は本拠を堀越城から「高岡」の地へ新城築城を計画します。 (津軽編覧日記)その理由について「鷹岡城」(大正4年発行) は堀越城の城郭が狭いこと、また平地のため防御面の問題をあげて います。 新しい城の城地選定にあたって「津軽弘前城史」(昭和6年発行) は候補が3か所あったことを述べています。 一つは「高岡」(現在の場所)、二つ目は現在の長勝寺付近、 三つ目は茂森の山としています。 為信は軍師沼田面松斎と相談し、軍事面や風水の面などから 現在の「高岡」を選んだと思われます。 西側には岩木川が流れ、東側には土渕川が流れる台地を選んだ ことになります。 「高岡」という地名は、その名の通り高い丘がある場所で現在も その名残があります。本丸の西側にある蓮池から本丸を望むと、 そこは急峻な丘になっています。これが高岡の名残と思います。 私は今まで弘前市全体の旧称が高岡と思っていましたが築城時の 候補地選定の経緯からみると、現在の本丸付近の城地が高岡 だったということになります。江戸時代の史書「北畠永禄日記」 には鷹師が毎年鷹狩にきていたとありますので鷹岡とも呼ばれて いたようです。 高岡城の築城が完成したのは慶長16年(1611)です。 為信は慶長12年(1607)に京都で逝去していますので、 高岡城には入っていません。 高岡城に大事件が起きたのは寛永4年(1627)です。 天守閣が落雷で焼失したのです。この事件が「弘前」への改称の きっかけとなります。この続きは次のページを参照してください。 |