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次は斯馬国です。斯馬国は魏略には登場しませんが、魏志倭人伝には 登場します。旁国として国名のみを紹介されている21国のトップの 国です。この国は現在の糸島半島の「志摩」にあったと考えられて います。伊都国に隣接している国で、魏志倭人伝では斯馬国と表記さ れていますが、日本語では「嶋」を意味していたと考えられます。 現在は糸島半島として地続きになっていますが、2000年前は完全に 嶋となっていた筈です。 その証拠は志摩歴史資料館に展示されています。奈良の正倉院に残って いる日本最古の戸籍に関する紹介がされています。 大宝2年西暦702年に作成された「筑前国嶋郡川邊里」という場所の 戸籍が正倉院に残っているということです。 この戸籍にあるように「嶋郡」となっていますので、現在は志摩という 文字をあてていますが元々はこの地は「嶋」の意味で付けられたことを 示しています。魏志では「斯馬」として表記されました。 魏使は末廬国に上陸後伊都国を目指していますので、斯馬国には立ち 寄っていないと思います。しかし末廬国を出てから最初に通過する国 であるので、旁国としてトップに紹介されたと思います。 斯馬国の中心は糸島富士や筑紫富士として知られる可也山(365m) (写真右)の北側にある現在の「志摩町大字初」付近の場所で「一の町 遺跡」として発掘されています。この場所は平野の少ない志摩半島内で 最も広い平野を有する場所で、稲作に適した農業の生産基盤を有して いたという場所です。 斯馬国の歴史は志摩歴史資料館に展示されています。一の町遺跡からは 銘や紐が明確に残っている方格規矩鏡片(復元径14cm)が出土して います。 「斯馬国」と「伊都国」との位置関係を示す重要な情報が「翰苑」に 記載されています。「翰苑」は唐の時代に編纂され、現在は中国にも 存在せず第30巻のみ太宰府天満宮にて国宝として保管されている 歴史書で、倭国に関する記載があり、その中に「邪届伊都傍連斯馬」 という文があります。この文の意味は「ななめに伊都にいたり、 かたわら斯馬につらなる」と読むということで、伊都国と斯馬国は 近接した位置関係であったことが分かります。現在でも「糸島半島」が あり、「糸島市」があります。 先述の戸籍の続きです。当時川邊里には28戸あり400人、その中 に「肥君猪手」という戸主があります。 「肥君」は元々は肥の国(現在の熊本県)の王です。志摩の場所は 筑紫ですから本来ならば筑紫君の系列であってしかるべきですが、 肥君の系列になっています。肥の国は邪馬壹国の時代は「狗奴国」と 想定される場所ですから、この戸籍は卑弥呼亡き後の邪馬壹国と 狗奴国の戦いの結果を暗示する記事でもあります。 さて志摩のシンボルである「可也山」ですが韓国南部の古都「高霊」 の近くに「伽耶山」(1430m)があります。従って志摩の地にも 古代に伽耶の人が斯馬国にきて同じ名前の山の名前を付けたと思われ ます。「高霊」は加耶諸国の中でも本家とされる場所です。 |