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現在我々が邪馬台國と称しているのは439年頃に編纂された後漢書に 「大倭王は邪馬臺國にいる」という記載があることに起因しています。 しかし284年頃に編纂された三國志の魏志巻三十の中にある東夷倭人 の条(通称魏志倭人伝)には「邪馬壹國」と記載されているのです。 魏志倭人伝ではキッチリ「壹」と「臺」を使い分けています。 「邪馬壹國」という国名は勿論、卑弥呼の後継者である「壹與」の名前 は3回登場しますが、これらは全て「壹」と記載されており、一方で 「壹與」が生口を30人献上する相手は魏の都洛陽の天子/中央政庁を 意味する「臺」を用いています。 後漢書では「邪馬臺國」と記載しています。この相違は色々奥が深そう ですので、このHPの最後にまとめています。 さて今回のメインテーマに戻ります。「邪馬壹國」は中国の史書に登場 する呼称ですが、倭語では何という名称で、何処にあったのでしょう。 |