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阿蘇山の麓には大量の鉄器を産出した他の遺跡もあります。 菊池郡大津町にある「西弥護免遺跡」や阿蘇市狩尾小野原にある 「小野原遺跡」が発掘されています。上の図は、川越先生がまとめた 「弥生時代鉄器総覧」のデータを用いて、福岡県と熊本県で発掘された 鉄器について、弥生時代の中期(BC200−AD50)と後期 (AD50−250)の比較をしたものです。 鉄器として刀剣・鏃・工具他の3種についてグラフにしてみました。 これでみると中期(卑弥呼時代の前)においても後期(卑弥呼の 時代)においても福岡県が圧倒的に鉄器を保有していたことが 分かります。 しかし注意すべきことは熊本県における中期から後期に至る変化です。 中期には刀剣も鏃も発見されなかったのが、後期になると鏃については 福岡とほとんど同じ規模になります。即ち熊本は卑弥呼の時代に 大量の鉄器を保有していたことが分かります。 何故熊本は鉄器を保有できたのでしょうか。今後の研究テーマの 一つです。この圧倒的な鉄器を背景に邪馬壹国との戦争に臨んだ ものと考えられます。 邪馬壹国と狗奴国の境界は福岡県と熊本県の間にある「筑肥山地」 です。邪馬壹国の候補の一つである福岡県山門郡瀬高は、邪馬壹国の 南限の一部であったと思います。 邪馬壹国と狗奴国の戦いは九州の覇権をかけたものでしたが、 私は「有明海の制海権」をかけた戦いでもあったのではと推察 しています。邪馬壹国は北部九州が地盤ですから、博多湾を含む 九州北部の制海権は完全に保有していました。一方狗奴国は 中国や朝鮮半島と交易するためには「有明海」から出ることが 必要になります。従って有明海を確保することは狗奴国に とっては最重要課題だった筈です。邪馬壹国と狗奴国の戦いは 有明海の制海権」をかけた戦いでもあったと推察しています。 |