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「邪馬壹國」の文字をみて、これは邪馬台國(いわゆるヤマタイ国) の間違いではないかと思われる方が多いと思います。 しかし西暦284年頃に編纂された「三國志」の魏志巻三十の中にある 東夷倭人の条(通称魏志倭人伝)には上の写真のように「邪馬壹國」 と記載されていたと考えられています。 現在我々が邪馬台國と称しているのは439年頃に編纂された後漢書に 「大倭王は邪馬臺國にいる」という記載があることに起因しています。 ただ、魏志倭人伝の原本は残念ながら残っておらず、「邪馬壹國」と 「邪馬臺國」の大論争は現在も続いています。が、現存する最古の魏志 倭人伝である1162年頃成立の紹興(しょうこう)本で「邪馬壹国」 であること、中国の各時代に「三國志」の名称で発行された全ての刊本 に「邪馬壹國」(もしくは「邪馬一國」)と記述されていること、更に 最近では1959年に中国の中華書局から校点発行された「三国志」で 「邪馬壹國」と記述されていることから、ここでは上の図にある「邪馬 壹國」として進めることにします。 なお、この問題は長年論争が続いているテーマですので、このHPの 最後に再度整理して報告することにします。 「邪馬壹国」の所在地をめぐる論争は江戸時代から始まり現在も決着 していません。 魏志倭人伝の記載は内容が不明確な点が多々あり、九州説や近畿説 のみならず、我が国の様々なところに邪馬壹国の比定地が存在します。 しかしながら「邪馬壹国」の女王卑弥呼の墓は1969−72年(昭和 44ー47年)の福岡県による調査の中で既に発掘されていたのです。 詳しくは後述します。 魏志倭人伝の著者陳寿が参考にした歴史書の一つは、260年頃に成立 した「魏略」とされています。魏略本文は残っていませんが、その逸文 に邪馬壹国への道のりが示されています。 魏略逸文を伝える「翰苑」は九州の太宰府天満宮が現蔵しています。 魏略逸文には邪馬壹国への道のりがシンプルに記載されています。 倭国へのスタートは朝鮮半島の帯方郡です。帯方郡は当時の魏の朝鮮 半島の役所が設置されたところで、現在のソウル付近とする説と北朝鮮 の黄海北道沙里院市とする説もあります。特に後者は1912年に帯方 太守の銘のある墓が発見されたこともあり、有力です。 大同江の河口より南側が帯方郡の範囲と考えられています。 帯方郡から倭に向かう道のりとして対馬国(現在の対馬)及び一支国 (現在の壱岐島)を経由して末廬国(現在の唐津市)に上陸、伊都国 (現在の糸島市前原)を経由すること、そして女王国の南に「狗奴国」 があること、帯方郡から女王国までは1万2千余里であることが示さ れています。 また「女王国の南」に敵対していた「狗奴国」が存在していたことも 重要なポイントです。 今回の邪馬壹国旅行記は、まず末廬国からスタートし、その時代の 代表的遺跡である「吉野ヶ里」、更に狗奴国の都跡を訪ね、「発掘 されていた卑弥呼の墓」を紹介します。 |