西洋りんごのルーツ(その2)

西洋りんごのルーツ(その2)

*日米和親条約を記念して

日本とアメリカは1854年3月(安政元年)に日米和親条約を
締結しました。青森県浪岡町で発行された新聞「商工浪岡」によれば、
この日米和親条約締結を記念して第14代米国大統領 
Franklin Pierceより第13代将軍徳川家定公にりんごの
苗木3本を贈呈したのが始まりとあります。
日米和親条約が締結されたのは横浜で、現在の山下公園に近い「横浜
開港資料館」の場所です。この写真はペリーも見た筈の玉楠です。
ペリー上陸を描いた絵に、この同じ玉楠が描かれています。現在も同じ
場所に立っています。
りんごの苗木については、日米和親条約に関連してペリー提督や初代
総領事となったハリスから英文の国書を和訳した東京芝の増上寺への
お礼としての贈呈説もあります。

*りんごの父 松平春嶽公

 もう一つの説です。越前松平家が発行した「松平試農場史」ならびに
青森県の黒石民報によれば福井藩第16代藩主松平春嶽公が1862年
(文久2年)アメリカからりんごの苗木を取り寄せ、それを江戸巣鴨の
越前邸に植えた。その枝を接木した苗木を1866年(慶応2年)津軽
浪岡の本陣平野慶太郎氏が江戸の植木屋から2本買い求め、浪岡本陣の
庭園の門のそばに1本、池のそばに1本植えたのが始まりとあります。
「幕末維新と松平春嶽」(吉川弘文館発行)によれば平野家が
この苗木でりんご栽培に取り組み、その後青森県の主要産業に発展した
ことから平野家が昭和31年に青森りんご栽培90年を記念して
「りんごの父」として高さ40cmの春嶽公の像を作り盛大な記念
式典を開催したとのことです。
福井と津軽の意外なつながりがありました。

 松平春嶽公は八代将軍徳川吉宗の血筋を引く方で1828年江戸
城内の田安家で生まれ、わずか11歳で福井藩16代藩主となった。
幕末の動乱期には幕府の要職にあり、また「明治」の元号を提案した
とも言われています。
 津軽藩は津軽為信を藩祖として、現在の弘前市に居城を構え、禄高は
10万石。興味深いのは日本農業技術史(日本学士院編)によれば
江戸時代に諸藩から幕府に進じた特産品で津軽藩からは「柿」が
献上されていることです。
まさに「りんご」が津軽の名産となったのは明治になってからのこと
になる。現在弘前城址は公園となっており、3千本の桜が5月連休
前後に満開となる東北一の桜の名所です。


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