祇園山古墳

祇園山古墳 祇園山古墳


卑弥呼の墓の条件を満たす最も近い遺跡が祇園山古墳であることを
みてきました。
しかしながら、この方墳の頂上で発見された主棺に収められていた
人物が卑弥呼と断定するのは更なる検討が必要と考えています。
高良大社にはこの地は大祝職の日往尊の廟として伝わっていること
です。(Wさんが目視した)主棺に埋葬されていた2体の人骨は
大祝職の日往尊である可能性もあります。
しかしながら、この方墳の墳丘外周に発掘された62基の墓は
全体では100基程度になること、甕棺からは後漢鏡片・勾玉・
剣などが発掘されていることなど、魏志倭人伝の卑弥呼の墓の条件を
限りなく備えた墳墓といえます。

私は一つの仮説を持っています。現在の主棺の真下、地山の深さの
所に卑弥呼を埋葬した主棺が眠っているのではと考えています。
この祇園山古墳の南側で発掘された祇園山第2号墳で発掘された
人骨の棺墓は地山を掘って埋葬していること、また同じ久留米の
山川町で発掘された七曲山古墳の人骨も同様に地山を掘って埋葬
していることから、当時のこの地域の埋葬方法としては、地山を
掘って主棺を埋葬する方式を採用していたのではと思われます。
現在の祇園山古墳は写真のように2段になっており、当初の高さは
6m程度とみられています。相当高いという印象があります。
元々は地山を掘って卑弥呼を埋葬、その上に3m程度の盛土で構成
した墓の上に日往尊の墓を作ったのではという仮説です。
埋蔵文化財保護の視点からは、遺跡として一度発掘した場所を再度
発掘することはないと伺っています。
卑弥呼は永遠の眠りについたままかも知れません。

皆さんも是非筑後一之宮高良大社に参拝し、宝物殿の鏡を見学、
発掘されていた卑弥呼の墓「祇園山古墳」の上にたって卑弥呼の
眠っていた場所から久留米の町を眺め、卑弥呼の時代に思いを
はせてください。
「祇園山古墳」は卑弥呼の墓ですが、卑弥呼の居住地は何処に
あったのでしょう。個人的には現在の久留米大学の近辺とする
見方に賛成します。この場所は現在まで考古学的な発掘・調査は
されていないと伺っています。親魏倭王の金印が眠っているのでは
ないでしょうか。

さて「邪馬壹國」と「邪馬臺國」の問題です。
「三国志」は284年頃の成立と考えられていますが原本は失われて
います。現存する最古の刊本は1162年頃成立の紹興本と呼ばれる
もので、そこには「邪馬壹國」と記述されています。
一方「三国志」の後で439年頃成立の「後漢書」には、大倭王は
「邪馬臺國」に居と記述されており、636年成立の「隋書」には
魏志の「邪馬臺國」と記述されていること等から原本の「三国志」
には「邪馬壹國」と記述されていたのではとする説があります。
「三国志」の原本は失われていますので、実際のことは不明ですが
関連する古文書を確認してみます。
「三国志」の著者は陳寿で、陳寿は「壹」と「臺」について明確な
使い分けをしています。国名と人名について「壹」を用い朝廷への
献上の際に「臺」を使用しています。
「臺」は古代は宮中や御所を意味するということが中国の古文書
「容斎続筆」の卷五に示されています。陳寿は「臺」の意味を踏ま
えた文字の使い分けをしたものと思われます。
日本の宮内庁が所蔵する「三国志」も陳寿の使い分け通りです。
「三国志」の刊本は多くの版が残っており、中国では正史24史の
内4史(史記、漢書、後漢書、三国志)について、校点本を中華
書局から出版しています。「三国志」については1959年に発行
されています。「壹」と「臺」の使い分けは宮内庁所蔵のものと
同じです。
興味深いのは宋の年代(960−1279年)に発行された「三国志」
が北京の中国国家図書館に所蔵されており、その魏志には「邪馬一國」
と記述されています。人名の壹與と朝廷への献上の際に「臺」を使用
するのは他の「三国志」と同じです。
「邪馬一國」という記述は1200年頃成立の中国の古文書「資治
通鑑綱目」の巻四十一でも同じです。
「壹」と「臺」の使い分けは「三国志」という書名で発行された
全ての刊本で共通した内容になっています。
「邪馬臺國」という文字は439年頃成立の「後漢書」で使われて
います。676年に李賢が「後漢書」に注を追記しています。
北京の中国国家図書館に所蔵されている「後漢書」の宋ー元時代
の刊本では列伝巻七十五で「邪馬臺國」の注として李賢が「邪摩惟」
の訛であるとしています。「邪摩惟」はヤマイのことでしょうから、
この注は「邪馬臺國」は(元々は)「邪馬壹國」だったことを意味
するものと考えることが出来ます。
もし「三国志」の原本で元々「邪馬臺國」と記述されていたので
あれば、李賢がわざわざこの注をする必要がありません。
「三国志」には429年に「松之は注をして陳寿の記述の補足を
していますが、「邪馬壹國」のことについては何の補足(注)も
入れていません。
「三国志」という書名で発行された全ての刊本で「壹」と「臺」の
使い分けは共通した内容になっています。
「三国志」の原本も「邪馬壹國」と記述していたと考えるのが
自然です。

次に「短里」のことです。「魏志」の倭人伝と韓伝には距離の基準
が通常とは異なるルールが適用されており、通常の1/6とする
短里で考えると実際の距離に相当することをみてきました。
「三國志」の「蜀書」にも短里のルールにみえる記述があります。
北京の中国国家図書館所蔵の宋の年代に発行された「三国志」の
「蜀書」の巻第七「ろう統法正伝」の中に、牛による荷物の運搬に
関して「松之が注釈を入れています。呉録によれば牛による荷物の
運搬は一日三百里と記述されています。当時の通常の距離ルール
では1里は435mですから三百里は130kmになります。
古代の中国での軍隊の1日の移動は30里と言われていますから
300百里は現実に合わない数字です。

一方1983年中国の湖北省で発掘された竹簡で後漢時代の法律
(略称は二年律令)に、重荷の移動は50里と定められている
ことが判明しました。「三国志」蜀書の300里の1/6です。
ここでも短里のルールが適用されたものと考えられています。
この短里ルールが意味することは何でしょう。

1937年に上海の商務印書館から発行された「中国度量衡史」
があります。その第5章に第一時期中国度量衡という項目があり
第5節の冒頭の「周尺長度之推證」で周の時代に4つの長さ基準
があったことが説明されています。
その一つは手の長さを基準にするもので現代の19.91cmです。
魏の時代には1尺は24.2cmとなり6尺が歩となり300歩
が1里で435m(標準、長里)となります。
「中国度量衡史」では周尺の3つ目の基準に現代の23.89cm
を1歩とする説明があります。この長さは、ほぼ足の長さです。
ヨーロッパで基準とされた「フィート」feetと同じ考えです。
1feetは約30cmです。元々ヨーロッパ人の足の長さの平均は
24cmですが、feetは靴を履いた時の長さと考えられています。
中国の1里は300歩ですので、3つ目の基準としてあがった
ルールを適用すると1里は72mになります。これが短里です。
いずれにしても身体尺の一種です。
中国の尺は手の親指と人差し指を開いた時の長さから始まって
いますので、手を基準とした長さです。一方24cmを1歩と
する長さは足基準の長さです。
身体尺はばらつきが大きいので、中国では骨尺等ものさしを利用
した計量の仕組みが進展します。
古代中国の度量衡制度は秦の始皇帝がBC221年に度量衡の
統一を図ったことが有名で、それ以前は時代や地方によって様々
だったといわれています。古代中国の長さの測量は手基準の尺で
進みましたので、6尺を1歩、300歩を1里とし、魏の時代
には1里435mとなっています。これが標準でした。
「魏志」の倭人伝と韓伝には足基準の古い長さ(短里)が残った
のではと考えます。

卑弥呼の時代のことは中国の歴史書「魏志」に「邪馬壹國」として
登場しますが、不思議なことに我が国の正史「日本書紀」には登場
しません。しいていえば神功皇后の業績として記述されています。
「邪馬壹國」「邪馬臺國」論争以上に不思議なことです。


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