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卑弥呼の墓の所在地は次の条件に合うことが必要と考えます。 1.女王国の中にあること。 2.魏志倭人伝に記載された卑弥呼の墓の条件を満足すること。 3.時代は弥生時代後期であること。 4.卑弥呼の時代の情勢を反映していること。 これらの条件について順番に中味を確認することにします。 1.女王国の中にあること。 卑弥呼の墓は邪馬壹国の中にあることが最も自然ですが、少なくとも 女王国の管轄内であることが必要です。 邪馬壹国の所在地は北部九州です。文献も考古学の結果もそれを示して います。文献面では前述の通りですが、上の表は考古学の結果です。 川越先生の「弥生時代鉄器総覧」から魏志倭人伝に記載された弥生 時代の遺物について、福岡県と奈良県の発掘結果についてまとめた ものです。 我が国における稲作の導入と発展・鉄器の普及・中国朝鮮半島との 交流・弥生時代の遺跡の状況も含めて福岡県を中心する北部九州が 弥生時代の先導的役割を果たしたと考えられています。 邪馬壹国は九州最大の河「筑後川が作った筑紫平野」を基盤にして 強大な国に発展したと考えます。 卑弥呼の墓も筑紫平野の中にある筈です。 2.魏志倭人伝に記載された卑弥呼の墓の条件を満足すること。 魏志倭人伝に卑弥呼の墓について記述があります。ここには2つの 重要な情報が記載されています。一つは大きさ(径)が約100歩 であること、二つ目は奴隷約100人が殉葬されたことです。 径100歩の大きさは当時の標準では145mですが、短里説では 1/6で約24mになります。卑弥呼の墓は約24m程度の大きさで 100人の殉葬を伴った墓になります。 3.時代は弥生時代後期であること。 卑弥呼が逝去したのは西暦238年頃といわれています。従って 墓も遺跡もこの時代のものでなければなりません。 4.卑弥呼の時代の情勢を反映していること。 卑弥呼が逝去した時代は狗奴国との戦いの時代です。従って墓の 造営に長期間(例えば10年以上)をかけるような環境では なかったと考えられます。 現在まで北九州で発掘された墳墓の中は伊都国の平原遺跡が時代や 副葬品の内容から判断すると卑弥呼の墓にふさわしいのですが、 上述の第2の条件を満足していません。 |